わたしにとって、印象的なアーティストはなぜか、短命です。
生きいそぐような、壮絶な人生。
一瞬を永遠にかえてしまうかのような、そんな生きかたにあこがれと同時にせつなさを感じてしまいます。
カリスマ性があり、非凡であるからこそ、わたしの心のなかに生きつづけているのですが、もっと楽に長く生きることもできたのではないかなとおもうのです。
もっと、長く生きていてほしかったなと。
今回は、太く、短く、壮絶にいきようよ、というテーマではありません。もっと自分もまわりも楽にハッピーに生きるにはどんな方法があるかをかんがえてみます。
26歳で人生の幕をとじた、尾崎豊さんの「僕が僕であるために」という歌に「僕が僕であるために勝ちつづけなければならない」というフレーズがあります。
この曲をきくたびに尾崎さんらしいなとおもうと同時に、かれがこの世で、いかに生きにくかったであろうかと胸がしめつけられるようなきもちになります。
自分自身であるために、勝ちつづけなければならない。
それは、負けた自分はみとめない、ゆるせないということですよね。
そんな悲壮な決意をもって、人生にいどみつづけていたら、そりゃあ、バッテリーぎれで、短命におわるしかないでしょう。
そもそも、人生は勝ち、負けだけではないはずです。勝ち組、負け組というワードもはやりましたが。
人生は博打という信念のもとに生きるかたには「勝ちつづけなければならない」というフレーズはしっくりくるのかもしれません。
しかし、サラリーマン生活をおくってきた、わたし自身の日々をおもいかえすと、もはや、勝ち負けでさえなく、白、黒でもわりきれない、グレーゾーンばかりだったようなきがします。
清濁あわせのみ、水にながすことも必然的におこなってきました。
それは、けっして、負けることではないはずです。
自分をないがしろにするわけでもなく、まわりの人とのバランスをうまくとりつつ、しなやかにいきることができれば、どんなにハッピーでしょう。
まず、自分が力をぬいて、リラックスした態度と表情でいれば、その場の雰囲気もやわらぎます。
オーラは周囲につたわります。
笑顔の人のまわりには人があつまりますよね。
常にはりつめた雰囲気の人には近寄りがたいものです。
だから、勝とう勝とうとするひとは孤独になるんですね。
孤高の存在とならざるをえないのです。
こおりつくような寂しさをかかえても勝ちつづけなければならない人生を選ぶ人もいるでしょう。
どのような生きかたを選ぶのかは、そのかたの価値観によります。
人生にもとめるものの違いが、生きざまをきめるといってよいでしょう。
このメッセージが、その手になにをつかみたいのか、考えるきっかけになれば、うれしいです。
朝日奈希