「心が硬いね」と言われたことがある人へ
昔、ある人にこう言われたことがある。
「心が硬い」と。
正直、意味がわからなかった。泣かない。取り乱さない。大声を出さない。弱さもあまり見せない。それは私にとって、ただの自然体だった。でも相手には、それが「心を開いていない」というふうに映るらしい。
この違和感の正体を、最近少しずつ言葉にできるようになった気がする。
言葉にしないことと、心を閉じていることは違う
私は昔から、自分のことを言葉で説明したり、感情を逐一言語化したりするのがあまり得意ではない。だからといって、何も感じていないわけでも、心を閉じているわけでもない。ただ、表現のチャンネルが違うだけなのだと思う。
言葉にせずとも伝わるものがある、と感じながら生きている人は、実は少なくないはずだ。
「感情を出す」ことがニュートラルな人と、そうでない人
世の中には、「感情を出す=心を開いている証拠」という前提が、当たり前のように流通している。泣くこと、声を大にすること、弱さをさらけ出すこと。それが親密さの証だと感じる人は多い。
でもその前提は、あくまである人たちにとってのニュートラルであって、万人共通の物差しではない。
大声で泣いたり喚いたりする人を見ると、正直びっくりしてしまう。感情がないからではなく、私の中には感情と行動の間に、自然な間合いのようなものがあって、それを飛び越えて外に出る人の在り方が、単純に自分の感覚とは違うのだと思う。
これは優劣の話ではない。基準点がずれているだけだ。

悲しみとの付き合い方も、人それぞれ
本当に大変な時ほど、涙も出ない。悲しみにどっぷり浸ると、そこから抜け出すのが厄介になることを知っているから、感じながらも、少しずつでも前へ進むことで自分を支えてきた。
最近「感情はしっかり感じ切ることが大事」という考え方にも触れて、なるほどと思う部分もあった。もしかしたら、感じたくなくて前に進んでいた場面もあったかもしれない、と気づけたのは収穫だった。
ただ、それを知った上で思うのは、「感じ切る」にも「前に進みながら抱える」にも、それぞれのやり方があっていいということだ。一つの正解に自分を当てはめる必要はない。気づければ、それで十分なこともある。
基準が違うだけで、間違っているわけではない
ベタベタした濃い距離感より、少し乾いた、必要な時に必要な分だけ関わる距離感の方が、自分には心地いい。長電話も、密着した人付き合いも、得意ではない。
それは冷たさではなく、ただ湿度の違う場所の方が呼吸がしやすい、というだけの話だと思う。
もし、あなたも「もっと感情を出した方がいい」「心を開いていない」と言われたことがあるなら。それはもしかしたら、相手の物差しがたまたまそうだった、というだけかもしれない。
感情がないのではなく、扱い方が違うだけ。
閉じているのではなく、静かに整えているだけ。
その違いに、優劣はない。


