余命宣告と生きること

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寝たら、ちゃんと明日になると思ってしまう。いつも通りの日常があって好きなことも好きな食べ物も、好きな漫画や映画もいつまでも見られる。

余命何年、何か月と言われたら生き方が変わるのかなって思うけれど。実際に余命宣告を受けたら、何をしたいかより、大切な場所でだれかと日常をしたいって思うかもしれないですね。

今の健康も、家族も、親友も、仕事仲間も

あたりまえにあるものではなくて、どこかひとつでも欠けると、叶わなかったことかもしれません。生きる「在り方」を考えてみました。

今日は、そんな生きることの話を書きます。食べること、絶えず変わっていく身体の話から生き方の話です。

生きることは、食べること

生きるは命をいただく

肉や魚は生き物をいただくという感覚があるのですが、植物は命という感じがしないものですね。

道端の草ではなくて、肥料を与えた野菜であれば、その肥料は家畜の糞や、有機物だとすると、生き物を使っているわけですね。

食べたものが血となり肉となる

人は90日ですべての細胞が生まれ変わるとされています。あの人は、ずいぶん変わったねと感じるのはそのためかな。

食べているもので細胞の入れ替わりがあり、その土地の空気や水たちと合わさって人間を絶えず、中身が入れ変わるようにできていますね。食べ物を食べて、糞をしているわけですからね。排泄物の中に食べ物は3~7%ほどしか入っていないそうなんです。体重も変わりませんから、食べ物と入れ替わっているとしか思えませんね。

あとどのくらい生きるの

大丈夫です、深刻に考える必要はありません。ときどき、年に1回そのことを考えさせてくれるのが、正月でしょうか、そんな節目があと何年生きるのかなって。

父が80歳となって、延命治療をしないことになって2週間目になりました。あれから実家の兄からの連絡はなく、命には限りがあるということを、実感する毎日です。

身近に死を感じるから生きるという尊さを実感できる。

あと何年生きられるかって考えたら

身体に負担をかけることはすぐにやめてしまおうと感じるし、何よりも、それに時間を割かれることがもったいないと感じるのです。

お酒・SNS・英語の勉強・ただつけているTV・だらだら見るネット・やりたくない仕事・本気でやらない仕事で怒られる・周りの意見に左右される・意識の違う同僚との仕事・姑に気を遣う

命の余韻

50歳なら、あと30年から40年ぐらいでしょうか。残りの時間が大切だなと感じるようになったのはいつぐらいからだったかなと考えます。

・誰かのために生きること

・誰かに生かされていること

会社を辞めたときだと思う。あのころと比べると、朝起きる理由も会社に行く理由も180度方向が変わった。

誰かのせいではなくて、自分の責任で生きようとしたときは、いままでの場所から離れたいとそう感じる。

それが、生きることなんでしょう。

生きることは食べること、生かされているのは誰かの為になっているから

そう考えていたら、命が生き生きしますね。

まんまマリア

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