生きてしまった意味を考えてた10年

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

 あの日被災した日のことを思い出します。昨日まで東日本大震災の話題がテレビでも多く取り上げられていました。10年前は生きてしまった意味について必死に考えていた気がする。

「10年前と今で変わったことは何だろう」と考えると、あまり変わってないなということがわたしの中の変化です。今日はその変わらないで持ち続けている思いについて書きたいと思います。

陸前高田の思い出

あの日被災した親戚は陸前高田市に住んでいました。よくお家に遊びにいきました。生まれたばかりの赤ちゃんを抱えて、旦那さんとおじいさん、おばあちゃん5人で裏山に逃げたそうです。何も持たず。

震災から4日が過ぎたころでしょうか。テレビにお寺が出て親戚が写ったのです。おばは、手に白いボードをもち、「家族全員無事です」と書かれていた。「心配しないで」ということを話していました。

よかったー

親戚を迎えに行けたのは震災からちょうど7日目でした。親戚の家は何も残らなかったです。陸前高田市は、がれきの撤去などで、国道が開通するには、6日ぐらいかかりました。道路の開通を待って迎えにいきました。

釘やガラスの破片や鉄くずなどがあったのでしょう。帰ってきたら車がパンクしていました。

その時のことは今でもわすれません。テレビに出ていたお寺にいったら、赤ちゃんがいるから優先的に中学校に移ったということでした。

がれきに思う

がれきの中に赤い🏁がついていた。これは亡くなった人がいるというもの。何本もあったことを覚えている。生きている自分がどうにもこうにもいたたまれない気持ちになっていった。

がれきをみたとき。ふきんしんかもしれないが、芸術のような姿をみた。ビルが半分えぐれていたり。車が何台もミニカーのように折り重なったり。

道路も家も境界線もまったくない世界。墨絵を書いて時々色を乗せるようなもの。

そのあと中学校にいきました。なかなか見つけられなかったですが、とにかくトイレ待ちの渋滞ができていた。学校でみんな寝るのかと思うとふびんです。

おばたちを見つけて、みんなと再会した。思ったより元気そうでした。元気でいるしかないという感じでしょうか。

このような危機的な状況では、ひとは強いなと感じた。誰一人怒ったりしていませんから。

家をみつけた

本当にたまたまなのですが、銀行が持っていた住宅を紹介することができました。その当時、沿岸のひとたちはたくさん内陸に移住をすすめていましたから、選べるぐらいの住宅はありませんでした。そんな中で2階建の中古一軒家が見つかったので紹介できて良かった。

義理のおばは私をかわいがってくれたっけ。

生きていてくれてありがとう。そんな気持ちをリアルに思いだせます。

思い出が残った

おばたちの思い出は毎年震災があった時期になると必ず思い出す。家が見つかって良かったということ。あの子は元気かなって。もう、小学校6年生ぐらいになっているかな。

最後までお読みくださってありがとうございます。

まんまマリア

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。