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自分がされて嫌なことはしない

「自分がされて嫌なことはしない」というのは、私が小さいころから親に『最低限』気を付けることとして教えられてきたことです。当たり前にしてきましたが、これって意外と難しいことかもしれないと思ったのでブログに綴ろうかと思いました。

恋愛関係にしても家族関係にしても社会生活全般にしても、この最低限の基本を持っていると成長するにつれ経験を積み重ねて人の心の機微に触れ、自然と良し悪しを判断できるようになると思います。

たまに人を裏切ったり奪ったり傷つけても「別に平気です」と仰る方がいます。そういった考え方を否定することもないんです。何せ自分の人生ですからね。自分が忘れた頃や年齢を重ねた時に裏切られ奪われ傷つけられても文句の言えない生き様だということだけ忘れなければ、そういう価値観もあるのかなと思います。

一生懸命、正しく生きていても気づかないところで人を傷つけてしまうことはあります。だからこそ最低限、自分がされて嫌なことはしない。さらに相手がされて嫌だということは、もちろんしない。これに尽きるかと思います。

損得勘定の是非

商売などビジネスは置いておいて人間関係や家族関係を『損得勘定』する人がいるようですが、正直言って『勘定』できてないです。もっと言うと人は誰しも『損得勘定』が出来るほどの能力は持っていないように思います。

人付き合いを打算的に考えて利益になるかどうかで関わることは時間と労力だけみても採算が合わないように思います。そして、人との関係を損得で割り切れるとでも思っているのかな?と思ってしまいます。

しかも、現在『得』をしたと感じたとしても時間が経つにつれ実は『損』していたと思うこともある訳で。つまり人間関係において損か得かなんて答えが出ずらいですし、時差で『損』に気づくこともありますから、そんな浅はかな計算自体オススメできません。

人と付き合う中で『損か得か』ではなく、合う人とは関係を深めれば良いし、合わなければ適正な距離を保ちながらバランスを取っていくしかないんです。それに人から損得勘定で付き合われていると思ったら気持ち悪いでしょう?何にでも言えることですが逆の立場に立てば割と答えは簡単です。ご参考まで。

選択は全て『自分でしている』

何かを選択しなくてはいけない時に流されて判断したり、相手に委ねて選択してしまったりすることがあるかと思います。

やむにやまれず、そうするしかなかった・・・とか。ですが、どんな状況であれ流されたにしろ勢いにしろ決断しているのは自分です。ですから決断した結果がどうであれ誰のせいでもなく、自分で決めたことなんです。

その決めたことに対して誰かのせいにしたくなったり、何かのせいにしたくなったりするのは現代においては少し無責任に感じます。昔々の日本であれば、その時代の縛られた色々なルールはありましたから可哀想なことも多かったですが、今は違います。少なくとも私の親世代は高齢ですが学校も仕事も恋愛も自由に選択していましたから、その頃から縛りは強くなかったように思います。

何が言いたいかというと、どんな決断・選択・判断も『自分』がしています。例え嫌なことも親に言われてやった・・・としても「やる」と決めたのは自分ですから。私も人に流されたり騙されたり奪われたりと自分の判断であっても悲しい経験はあります。ですが「自分」で決めたという自覚があるので反省して改善して立ち直るまでが猛スピードです。自分で自分の責任を持つことが気持ちを立て直す特効薬な気がします。

一人前になるということ

生きていれば良いことも悪いことも楽しいことも予期せぬ問題も起こります。何もない人はいません。受ける喜びやダメージは人それぞれですが、その出来事全てを人生の糧に変えていく必要があります。

一生懸命頑張ってもうまくいかない、努力してもなかなか実らない・・・それは、よくあることです。自分だけではないんです。でも、思い通りにならない時こそ人として成長して一人前になるチャンスでもあります。では、どうしたら成長して一人前になれるのか。

耳の痛い話も自分に不都合な話も聞く勇気ができたら一先ず成長です。そして、それを実行できたら「一人前」なんです。人の言うことをただ聞くということではなく、自分の中の足りないものを人の意見や考え方からアドバイスを頂くという事です。そして、確実で誠実な行動です。自分都合ではなく。

私も叱咤激励を頂くことがあります。その全てに感謝し、頂いた言葉を自分の中で何度も咀嚼して理解を深めながら自分が出来ることから実行していく作業をコツコツとしています。例えネガティブな言葉であっても、そういう人がいるという学びは確実にある訳ですから悲観的になる必要はありません。簡単に言いましたが、とても難しいことです。

別に一人前にならなくてもいいと言われてしまいそうですが、そう思う人がいても良いんです。ただ、人として成熟することをいう一人前を目指さなければ未成熟な人のまま磨かれずいることになります。人として深みを増し自分を輝かせたければ「一人前」を目指すことは必須事項です。ぜひ参考まで。

幸せの在処

幸せがどこにあるか探している方がいらっしゃいます。

でも、幸せというのは余所で見つけるものではないんです。

幸せというのは自分の心に既に持っているものなんです。

何か物で幸せの形を当てはめて埋めようとしても埋まらないんです。

何かで自分を満たそうとしても一瞬満たされた気にはなりますが、まやかしで一瞬で幸福感は消えてしまいます。

大切なのは目に見える形ではなく、自分の心が満ちる感覚を知ることなんです。

幸せは慎ましやかでさり気なく存在します。

それに気づける人が「幸せ」な人なんです。

幸せはトコトコ歩いては来ません。風に乗ってくるものでもありません。

自分が感じるものが「幸せ」です。

私が今日幸せに感じたことは「子供が元気に過ごせたこと」「夕日を見て子供と一緒に綺麗だと感じれたこと」「みんなが今日も無事で終えたこと」「私の体調不良の回復が早いこと」・・・上げるとキリがありませんね。あ!あとクッキー食べたことも沢山笑ったことも幸せでした。やはり、キリがありません。辛いことも苦しいこともあるけれど、何とか乗り切れていることに感謝の気持ちが湧いてきて「私って幸せだな・・・」と思います。そう思えない日もあるかもしれませんが、一日の終わりは幸せの数を数えてみて下さいね。

『欲深さ』の醜態

人間である以上、欲というのは必要不可欠なものですよね。

欲があるからこそ頑張れたり一生懸命になれたり。力にも変わります。

しかし「欲が深すぎる」と理性を失ったり、欲に支配された己の醜さが浮き彫りになります。

欲をコントロールするのは大変かもしれません。

欲のコントロールとは理性を維持させるということでもありますからね。難しいことです。

ですが、欲深い人というのは必ず見破られます。何を差し置いても欲を優先する姿は醜さを晒す行為なのですが、本人だけ気づいていないんです。晒していることを。

その恐ろしくも醜い姿になりたくないという気持ちがあるなら『理性を保つこと』と『欲を貪らないこと』を意識できると維持できると思います。欲に駆られ憑りつかれた姿は醜さの極みです。

欲に支配されそうになった時は我慢ではなく、忍耐です。9/16のブログに我慢と忍耐の違いを綴りましたので参考にしてもらえると幸いです。欲が暴走しそうになったら、忍耐力が試されていると思って立ち止まれると人としてレベルアップです。私も肝に銘じております。

忍耐≠我慢

私は『我慢』という言葉が苦手です。

この言葉は受動的で目的のない抑制を意味するようです。

仏教では煩悩を指し自我に執着し、おごり高ぶる心から離れられない慢心を言うそうです。漢字の意味をみても納得ですよね。つまり我慢は『美徳』でもなんでもないんです。「変えられない自分」を「可哀そうな自分」に置き換える常套手段のように思います。

逆に『忍耐』は能動的で良い未来や進展のために努力を続けることを言います。

苦しいことや辛いこともあるかもしれません。それでも自分の目的や乗り越えるものと位置付けて前向きに耐え忍ぶというのは、誰にでも必要な生きていく力かと思います。

そして我慢は感情を抑え込むだけなので『ストレスフル』、忍耐はポジティブな思考で感情をコントロールするので『ストレスレス』とも言われています。

良い時も悪い時も人生を豊かに彩るには『我慢』ではなく『忍耐』を身に着けた方が遥かに生きやすく前向きだと感じます。自分はどちらだろう?と考えてみるだけでも、少し違った視点を得られるのではと思います。ご参考まで。

頑張りすぎている『あなたへ』

『私だけ辛いと言えない』

『みんな頑張っているから』

この考え方は人を想い、自分を鼓舞できる心の優しい素晴らしい人です。

でも、誰しも頑張れる限界が必ずあります。

辛い時は辛いでいい、苦しい時は苦しいでいい。

泣きたかったら泣いたらいいんです。

頑張りすぎて人に弱みを見せるのが怖くなっていませんか?

弱い自分に目を背けていませんか?

自分の良い所と悪い所は表裏一体です。

完璧な人などいないのです。

だから大丈夫。弱さも脆さも愛しき人間らしさなのです。

幸せも不幸も誰かと比べる必要はなく、自分がどう感じるかです。

フォーカスするべきは自分の踏みしめる一歩なのですから。

みなさんがみなさんらしい笑顔でいられる時間を大切に。

『信念がある』ということ

信念があることと頑固や意固地になることは似ているようで全然違うものです。

では、どう違うか。

自分を曲げないという意味では似ているのですが、方向性が全然違います。

信念というのは、自分の叶えたいことに対して嫌なことも頑張れることを言います。それがなく『やりたいようにやる』『自分を変えたくない』という理由だけだと頑固・意固地だということになります。

信念は自分の貫きたい思いに対して自分が誠実で嫌なことも苦手なことも乗り越えていくことだと思います。人から理解されなくても、自分に信念があるなら大丈夫。必ず前に進みます。

私自身も「自分は頑固になっていないかな?」と問うことがあります。信念があることと頑固な気持ちが自分の中で混同していないかを確認したりします。人間ですから間違うこともありますし、失敗もあるので、そこを履き違えないようにしています。

『体裁』は自分を幸せにしてくれますか?

『体裁』というのは、見かけ・見栄えを言います。同じような意味では『世間体』とも言いますよね。この体裁や世間体という内面を伴わない格好が自分を幸せにしてくれるか?と思うことがあり、ブログに綴りたいと思います。

家から一歩外に出ると社会の一員として常識的な振る舞いは大切になります。共存する人間同士、人に気遣う気持ちは生きていく上でとても重要に思います。しかし、体裁を気にするというのは気遣いではなく「自分がどう見られているか」という上辺の話になります。

表層的な部分で自分がよく見られたいエゴの為に我慢していることはありませんか?こういったことは特に家族関係、夫婦関係に多いように思います。他人に迷惑をかけない前提があれば、人からどう思われるかよりも、自分が自信を持って幸せだと思える状況を作り出す必要があります。

実体のない幸せを表面的に取り繕うことは、今は良くても後々に後悔という形で自分の心や身体を蝕みます。生きていれば我慢することも踏ん張ることも多分にあります。しかし、その我慢や踏ん張りは『体裁』つまり体の良い我欲ではないですか?表向きどうかよりも心から幸せを感じられる選択を自分の中で出来るようになると、幸せから自分の方へ寄ってきます。ぜひ、参考まで。